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ジョニー大倉さん死去 あの転落事故の真相とは? [エンタメ]

【ジョニー大倉さん死去 62歳 肺炎】

昨日、ロックバンド、キャロルの元メンバーで、


歌手だったジョニー大倉さんが、
闘病中だった肺がんにより62歳で、
お亡くなりになりました。


ジョニー大倉さんは、
1975年のロックバンド、キャロル解散後は、
歌手や役者としてソロ活動をしておられました。


昨年6月に、肺がんにより
余命2週間との宣告を受けていましたが、
抗がん剤治療を受けて今年の3月にはいったん退院しました。


4月には再び約一年ぶりのステージに立つなど、
順調な回復ぶりを見せていたものの、
8月には再発し再入院、抗がん剤治療を続けて、
来年のデビュー40周年へ向けて年内の退院を目指していました。

元ロックバンド、キャロルのメンバーだったジョニー大倉さんの訃報を受け、
ジョニー大倉さんと一緒にロックバンド、キャロルでボーカルとして活躍していた
「永ちゃん」こと矢沢永吉さんも
所属事務所を通じて追悼のコメントを発表しました。


「非常に残念です。心からお悔やみ申し上げます」


ジョニー大倉さんは、
以前「キャロルは矢沢だけのものじゃない。 3人(ジョニー、内海、岡崎の)は、 矢沢のバックバンドじゃない」などの発言で、
矢沢永吉さんとの確執も伝えられていました。


また一方では、
「確執も誤解が多かった。 価値観の違いは相いれなかったけど、 強い友情で結ばれていた」とも話していたそうです。


近しい関係者の話では、
「ジョニーは矢沢さんのことが大好きなんです」との話も。


【ジョニー大倉が語った「永ちゃんへの思い」】

伝説のロックバンド、キャロルので、
ボーカルだった矢沢永吉(62)さんとの
確執が伝えられていたジョニー大倉(60)さんが、
永ちゃんへの思いを語っていた。


デビュー40周年アルバム
「I remember CAROL」発売記念ライブを
東京・銀座タクトで開催したときの、
ライブ前に行われた取材に応じ、
40年間で最も印象的だったことを問われ、
「宿命的に矢沢永吉と出会ったこと」と即答したという。


1975年(昭50)の解散ライブ以来、
矢沢永吉との音楽的交流は一切ないようで。


そんな中、今年9月、矢沢永吉が
横浜・日産スタジアムで開催した40周年記念ライブで、
元キャロルのリードギター内海利勝(59)が、
37年ぶりに矢沢永吉との共演を果たした。


「矢沢さんの40周年を祝い、何万人ものファンがきた。彼の力。  そこで内海君が3曲ほどやったそうですね。うれしいことです」

自身はいなくても、矢沢永吉が、
再びかつての仲間とステージに立ったことが
何よりうれしかったようだ。


ジョニー大倉自身は、
矢沢永吉との確執が取りざたされて来た2003年5月に、


「キャロルは矢沢だけのものじゃない。  3人(ジョニー、内海、岡崎)は矢沢のバックバンドじゃない」
との発言をしていたようです。


個々に実力があるプロフェッショナルな者たちが集まって、
できるバンド活動の中では、どうしてもボーカルとか
目立つポジションにいる人間に注目が集まってしまうものです。


グループ活動をしていると、どうしてもこういう確執は出てきますよね。


過去にはチェッカーズの確執問題も有名なところですよね。


ファンとして見ている分には、ものすごく仲良く見えていましたから、
ワイドショーなどで見たときはびっくりしました!


一方で後日、


「確執も誤解が多かった。  価値観の違いは相いれなかったけど、強い友情で結ばれていた」

とも話していたようで。


本当のところは、ジョニー大倉さんも、
矢沢永吉さんのことが大好きだったんでしょうね。


また、大倉さんは悟ったように言ったそうです。


「キャロルという個人個人の集まりはもうないと思う。  日本のロックンロールの夜明けで頑張ったキャロルが伝説になった。  そのプライドは持って生きたい」。


同じ40周年記念ライブで矢沢永吉が集めた約6万5000人に対し、
ジョニー大倉の観客は約150人。


それでも「ファンキー・モンキー・ベイビー」など
自身が作詞したキャロルの21曲を1人きりで歌いきったそうです。


魂を込めて。


 ◆キャロル 1972年6月、矢沢永吉(ボーカル、ベース)
 ジョニー大倉(ボーカル、ギター)
 内海利勝(リードギター)
 岡崎ユウ(ドラムス)の4人組で結成。
 1972年12月、「ルイジアンナ」でメジャーデビュー。
 革ジャン、リーゼント、サングラスで一世を風靡、
 「ファンキー・モンキー・ベイビー」などヒットを出す。
 1975年4月、メンバーの音楽性の不一致を理由に解散。


以下、関連記事をまとめてみました。


【闘病中のジョニー大倉を二人の息子(ケンイチ大倉・大倉弘也)が語る…】

2013年6月に肺がんで余命2週間の宣告を受け、
闘病生活中の歌手・ジョニー大倉(62)の様子について、
二人の息子が語った。


「ジョニー大倉の闘病中の現在(いま)」

ジョニー大倉は、1971年に矢沢永吉らと
キャロルを結成し芸能界の道へ。


その後は俳優業にも進出し、
日本アカデミー賞優秀助演男優賞を
受賞するなど活躍の幅を広げてきた。


しかし、キャロル在籍中から1か月間失踪したり、
ホテルの7階のベランダで懸垂をして、
地上へ転落するなど奇行も目立ち、
一時は家庭崩壊寸前だったようだ。


そんなジョニー大倉は、2009年7月、
同年3月に悪性リンパ腫の治療を行った事を公表。


さらに2013年6月には、肺がんでの入院。


肺がん末期だった。


病状は重く、一時は”余命2週間”の宣告を受けて、
闘病生活を送っていたという。


だが、治療の経過が良く、2014年4月13日には
息子のケンイチと共に復活ライブを開催。


ケンイチ大倉・大倉弘也の二人の息子が
ジョニー大倉の現在について語る


ジョニー大倉には、
妻であるマリー大倉との間に二人の子供がいる。


ミュージシャンで俳優のケンイチ大倉(42)と、
俳優の大倉弘也(35)だ。


ケンイチ大倉は、坂本つとむと
ユニットを組みライブ活動などを行っており、
ジョニー大倉の復活ライブも一緒に共演した。


ケンイチ氏は、そのほかにも、
映画やテレビに出演したり、
アニメ声優などの活動も行なっている。


ケンイチは、ジョニー大倉の現在の病状について

「食事に関しては、ちゃんと食べてます。  体力がないので、立って歩くと肺がんなので呼吸が続かなくなって、  酸素ボンベをしたり車椅子を使っている。  ただ余命2週間と宣告されていたのに、本当に親父はすごい。」

と話し、復活ライブの時には

「距離をおいていたオヤジと病気によって同じ時間を 過ごすことが多くなってやっと本当の親子になれた」

と語った。


一方、次男の大倉弘也は現在、
テレビ・映画・舞台等で俳優活動を行っている。


出演作は、任侠ヘルパー 第10話 、インディゴの夜、ドロップ、
ゴールデンスランバーなど。


キリンビールやポッキーのコマーシャルに出演していたこともある。


そんな大倉弘也は、ジョニー大倉の現在の様子について次のように語る。

「少しずつリハビリをこなしてきて、  日常生活に不自由しない程度にはなっています。  家の近所を散歩したり、ギターを弾いて歌ったりもしています。  家族は入院中の父のサポートはもちろん、  マスコミや関係者への対応などてんてこ舞いでしたね。  母は病院で寝泊まりして、兄と交代で付き添い……他にも  兄が『ジョニー大倉復活応援ライブ』で全国を回ったり、  家族でいろいろなことを協力して、補い合ってやってきました。」

一度はジョニー大倉から離れた家族。


しかし、奇しくも病気によって妻・息子との
距離を縮めることのできたジョニー大倉。


最後までロックンロール魂を見せてくれたことであろう。



【ジョニー大倉の転落事故(富山のホテル)の真相とは!?】

元キャロルのメンバーで、
ミュージシャン・俳優のジョニー大倉。


そんなジョニー大倉だが、
過去に富山のホテルから転落し、
大怪我を負うという事故を起こしている。


かなり謎めいた転落事故だが、
真相は一体どのようなものだろうか?


「ジョニー大倉 富山のホテルの7階から転落」

矢沢永吉らと結成した伝説的ロックバンドのキャロルが
1975年に解散した後、ジョニー大倉は俳優活動にも進出。


1981年に映画『遠雷』で
日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞するなど活躍の幅を広げていた。


そんな中、ジョニー大倉にとんでもない悲劇が。


1987年10月のこと、
ジョニー大倉がホテルの7階から転落したという事故が起きた。


富山市のホテル7階のベランダの手摺りで
懸垂をしていたジョニー大倉は、
ベランダから地上に転落し、
全治6か月の重傷を負ったというのだ。


なぜ、ベランダの手摺りで懸垂などしていたのだろうか?


後になってジョニー大倉は、この理由について、
「ホテルの部屋なので筋トレの器具が無かったため、  ベランダの手摺りを利用した。  客室の窓から外の手すりにぶら下がり、  懸垂をしていた際、手がすべったのが原因だった。」

と語っていた。


しかし、いくら筋トレをしたいからといって、
命の危険があるベランダの手すりで行うなんて通常は考えられない。


ホテル転落事故の真相は?


当時、ジョニー大倉は芸能界ではタブーとされていた
在日朝鮮人であることをカミングアウトしたり、
1ヶ月間失踪したりと、奇行が目立っていた。


そんなジョニーの富山のホテル転落事故について、
当時のマスコミは自殺未遂なのではないか?
と勘ぐっていたそうだ。


「ロッカーがホテルから転落…やっぱり(原因など)いろいろいわれましたよ。  マスコミもうるさいので、その後ハワイにリハビリに行っちゃったけどね」

自殺未遂ではないと話すジョニー大倉だが、
一方で単なる事故でもないのかもしれない。


2004年に起きた窪塚洋介の転落事故について、
ジョニー大倉は
「彼も僕も(自殺)未遂じゃない。  自分もキャロル時代は何かを埋める為に奇行に走っていた」

と話しており、窪塚の奇行に理解を示したのだ。


「僕もキャロル時代は『危険な目をした男』といわれ、  奇行を繰り返して矢沢(永吉)クンから怒られていた。  いつもサムシングを求めていて、どこか似たところもある気がする」

本当に死にたいわけではないのだが、
常に心に満たされない部分があり、
ふとした時に衝動的にとんでもないことを
してしまった…そんな感じだろうか?


富山のホテルでの転落の瞬間について、
ジョニーは次のように話している。


「頭から後ろ向きに落ちた。ただ『生きたい』と思えば、  1、2秒の間に何とかするんだね。必死に態勢を変えて、脇腹あたりから落ちた」

つまり、ジョニーの体は本能的に「生きたい」と思っていたのだ。


経験した人間にしかわからない、衝動的な行動が理由だったのだろう。


ただ、理由はなんであれ、
こういった奇行に巻き込まれる家族は大変な思いをしていた。


実際、ジョニー大倉の妻であるマリー大倉ことまりこさんは、

「当時のことは思い出したくない」

と話す。


二人の出会いは1971年。


ジョニー大倉が売れない頃から、
まりこさんはOLとスナックで働き、
ジョニーを支えてきた。


さらに籍を入れないままにジョニーの息子3人を出産したという。


そんなジョニーに尽くした人生を歩んできたのに、
ジョニー大倉は売れっ子になった途端、
家には帰らず子供もほったらかし、
さらにホテル転落事故に加えて隠し子騒動、
そして家庭崩壊寸前・・・今思い出しただけでも
体調が悪くなるほどの嫌な過去だと話す。


だが、奇しくもジョニー大倉の闘病生活が始まって以来、
家族はまた一つになって、
ジョニー大倉の元に集まっていたと息子は話す。


きっとジョニー大倉は、
奇行で迷惑をかけた家族と最後まで
大切な時間を過ごしてくれただろう。


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